江東区にある橋の由来を調べてみました。

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横バー

江東区にある橋の由来

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江東区にある名称は、どんな由来があるの?
橋名よみがな やらわ
地名編公園、庭園編河川編橋編
  橋名 ふりがな 歴史
相生橋 あいおいばし 佃島が埋立てられて月島となって、人々が住む町が開けるとともに、交通の便や、水道が必要になった。そこでまず、深川との間にこの相生橋が架けられた。明治36年のことであった。その後改修され、中ノ島で、大橋と小橋とに分かれるようになった。隅田川が、ここで左右に、大きく分岐するところの左側にあたっていて、川が湾曲するため上流から流れてきたものが滞留したところである。関東大震災の時も、今次の空襲のあとにも、さまざまなものが山のように集まった。ことに震災の時までは木橋であったため、橋も延焼した。現在の橋は、大正15年に、震災復興事業の最初の架橋として完成した。
伊予橋 いよばし 今は埋め立てられて道路になっているが、新大橋通りの五間堀(万治2年・1659に開削された)に架かっていた橋である。森下3丁目交番北側の伊予橋際公衆便所にはその絵が掲げられている。
海辺橋 うみべばし 元禄の末に、仙台掘川に架けられた橋。昔はこの付近を深川海辺町といったので、この橋の名がつけられた。芭蕉が奥の細道に出発したのは、この橋のたもとの仙台掘川から、船で隅田川をのぼった。
永代橋 えいたいばし

元禄11年(1698年)架橋当時は今より北、日本橋箱崎町と佐賀町とを結ぶ木橋で、深川を永代島とんでいたことからこの名となった。元禄15年(1702年)12月15日の朝、赤穂浪士の一行がこの橋を渡って泉岳寺へ向かった。文化4年(1807年)富岡八幡宮大祭のとき、多くの人が橋に押しかけたため橋の一部が崩れ落ちたくさんの人が亡くなった。明治30年、現在地に架けかえられ、関東大震災で壊れたので大正15年に現在の橋となった。

越中島橋 えっちゅうじまばし 大横川に架かる橋で、江戸時代から数回架け替えられている。現在の橋も、昭和52年に架け替えられたもので、長さ27.7mある。
小名木川橋 おなぎがわばし 小名木川に架かる長さ52.8mの橋。江戸時代から小名木川の船の航行は多かったが、その両岸の土手の道路も往来がはげしかった。今も小名木川道標が残っているし、五本松の旧跡の標柱も建っている。

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葛西橋 かさいばし 荒川に架かっている長さ738.3mの長い橋で、昭和38年に架け替えられた。最初は大正12年に荒川放水路が完成し江戸川方面から都心への進路として、昭和3年に木橋として架けられて葛西橋と名づけられた。当時(昭和3年)は都内で最長の橋であった。       
清洲橋 きよすばし

昭和3年に深川の清澄町と日本橋の中洲町を結ぶ橋が完成した。橋名は両町名を一字ずつ取って付けられました。橋を作るにあたってはドイツのラインの流れにかかる世界の美橋、ケルン市の吊り橋をモデルとして設計されました。

黒船橋 くろふねばし 黒船稲荷のそばにあったのでこの名前がある。この橋から富岡八幡宮にかけて参道がにぎわっていた。この橋は昭和5年に架け替えられえ、更に平成2年頃に架け替えした橋である。
琴平橋 ことひらばし 震災で焼失後、昭和2年に架橋された橋で、近くにあった琴平神社(現在は戦災で焼失、敷地は琴平会館になっている。)からとった名前。昭和63年度に改修し、欄干に波の模様や、帆掛け船の絵などをはめ込んであり、親水公園となった古石場によくマッチしている。
小松橋 こまつばし 猿江と扇橋を結ぶ小名木川に架かる橋で、昭和5年に架けられたが、昭和56年に改修されて現在に至っている。
猿江橋 さるえばし 猿江と森下を結ぶ大横川に架かる橋であった。現在の橋は、昭和4年のものであり、それを更に昭和52年に大改修している。
猿子橋 さるこばし 川で埋立てで撤去されたが、江戸期の寛政年間に六間掘に作られた橋で寛政10年(1798)に猿小橋で、母子の仇討ち事件が起き、この話は今も地元の人たちに語り継がれている。
時雨橋 しぐればし
四之橋 しのはし 万治2年()
新大橋 しんおおはし

元禄6年(1693年)の架橋。5代将軍綱吉の母桂昌院が江戸の人々の困っているのをみて、将軍に橋を架けることを進めたといわれています。両国橋を大橋と呼んでいたので、その下流に架けられたことから新大橋と命名された。埋め立ての進んだ深川と日本橋を結びました。明治45年鉄橋に架け替えられました。この橋のおかげで、大正12年関東大震災と昭和20年の戦災に多くの人々が助かりました。付近の人々は人助けの橋と呼んでいた。昭和52年に現在の橋に架け替えられました。旧鉄橋は明治時代の様子がよく分かる橋なので、その一部が愛知県の明治村に保存されている。

隅田川大橋 すみだがわおおはし 首都高速9号線の開通(昭和54年)にともなって造られた橋で、上が高速道、下が一般道で、橋の長さは391.7mもある。
洲崎橋 すさきばし 洲崎川に架かっていた橋であったが、洲崎川の埋立てによって撤去され、今は緑道公園になっている。近くには明治時代に文京区の根津から移転した、歓楽街であったが、昭和33年には廃止された。

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高橋 たかはし はじめて架けられた年代は不詳。江戸時代のはじめ頃からあった橋です。江戸時代の木橋は橋脚が極端に高い橋であったので高橋の名がついた。葛飾北斎の描く高橋は、高い橋の下に万年橋と富士山が見える絵で高橋の橋の高さがあらわれている。橋の返りが急なため、雨雪の日は渡るのが非常に困難だった。
竪川人道橋 たてかわじんどうきょう この橋は路面電車の専用橋として大正10年1月に水神森~大島間の開通に合わせて『竪川専用橋』として架設したものである。その後昭和47年に区内全線が廃止された。そして、昭和50年、歩行者・自転車専用橋として整備され、同54年橋の南北の軌道敷は緑と憩いの散歩道として録道公園となりました。
辰巳桜橋 たつみさくらばし 辰巳1丁目と東雲1丁目を結ぶ歩行者・自転車専用橋。
調練橋 ちょうれんばし かつては軍事訓練のために江戸末期調練場へ渡る橋なので付けられた名称であるが、その後架け替えがあり、昭和35年につくられたものも川の埋立てにともない、現在では、調練橋公園となり、橋も撤去されている。
巴橋 ともえばし 大横川に架かっている長さ40.5mの橋。富岡八幡宮の門前であるのと、八幡宮も紋所が、三つ巴であるので、この名がついた。現在の橋は、昭和4年に造られ、更に昭和52年に大改修されたものである。

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古石場橋 ふるいしばばし 昭和4年に古石場川に架けられた牡丹1、2丁目を結ぶ橋で、長さ19mある。
船堀橋 ふなぼりばし 旧中川、荒川、中川の三つの河川をまたぐ693.8mの長い橋で、昭和46年の架設。もとは大正12年に現在地より400mほど下流で木橋であった。台風や船舶の衝突などで幾度も補修されてきたが、老朽化が激しいので現在の橋に架橋された。
八幡橋 はちまんばし

明治11年に国産の鉄を使用し都内では一番古い橋です。中央区の楓川にかかり弾正橋という名前でした。関東大震災後、楓川が埋め立てられため昭和4年八幡堀に移され名前も八幡橋となりました。その後、八幡堀も埋め立てられ遊歩道になりましたが橋は保存され昭和52年国の重要文化財に指定、平成2年アメリカの土木学会からも表彰されました。今は、橋の下に川はありませんが人が渡れます、遊歩道から見ることもでき菊の紋章を見ることができます。

平久橋 へいきゅうばし 平久川に掛けられた橋で、旧町名・平富町と久右衛門町の間にあったのでこの名がある。橋台地に波除けの碑があり、都指定有形民俗文化財になっている。江戸時代には、この付近は潮干狩りでにぎわった。現在の橋は昭和2年につくられた。
蓬莱橋 ほうらいばし 大横川に架かっていた橋で、渡る人の下駄の音がガタガタとひびいたので、別名「がたくり橋」ともいわれた。富岡八幡宮の鳥居が良く見える場所であったが、昭和4年に、西側に巴橋ができたので撤去されて今はない。
牡丹橋 ぼたんばし 堅川に架かる長さ35.6mの橋で、昭和4年架設。橋名は、近くにあった「牡丹園」からとった。江戸時代から四ッ目の牡丹として有名であったが、大正末期に廃園となってしまった。

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丸太橋 まるたばし 仙台掘川支川と油掘川との合流点近くに架けられていた長さ17mの橋で昭和5年に架橋された。川の埋立てにより、撤去され、川は現在、亀堀公園となっている。その昔この辺りが木材置場であったころ、丸太をもって橋としたのでこの名がついたと言われている。
万年橋 まんねんばし

江戸時代の始めに架けられた古い橋。小名木川を通る船の荷物を調べる番所が万年橋の近くに作られましたが、のちに中川口に移り、万年橋は元番所の橋とも言われた。架けられた頃の万年橋は虹型の美しい橋で、ここから見る富士山の眺めは、とても素晴らしいもので名所の一つでした。広重や北斎が万年橋の絵を残しています。今の万年橋は昭和5年に作り替えたもので、木の橋から鉄の橋になりました。

参考資料:江東の昭和史〔1991年3月〕