江東区の地名の由来

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江東区の地名の由来

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江東区にある名称は、どんな由来があるの?
地名よみがな
  地名 よみがな 由来
青海 あおみ  臨海部の将来のシンボルゾーンとしてふさわしい町名として、すがすがしく、すぐれたさまを意味している。昭和38年から埋立てが始められ、58年から63年にかけて本江東区に編入された造成地である。
有明 ありあけ  昭和29に10号埋立地の一部が江東区に編入されて、深川有明4丁目が成立して以来の町名である。後に深川有明町(一~五丁目)が成立し、昭和43年4月1日、住居表示制度実施により現町名となる。
 有明とは、「有明の月・有明の灯…」などとも言われ、夜明けに残る月のようすであるが、すがすがしさを感じさせる。将来の光明を祈り、また隣接する東雲と関連を持つ名称として、当地の地名とされた。
石島 いしじま  石島の地名の起こりは、江戸時代に大横川沿いに成立した深川石島町にある。石島町は、宝永4年に大和屋藤助が扇橋通りの東側の土地を買い受け、成徳元年には築地町の名主である平野甚四郎が、深川十万坪内の土地を買い受けて成立した町である。両名は、当地が江戸の町と同様に家作を行えるよう嘆願し、町名も一同で願い出たとされている。町名の由来は不詳であるが、町の成立当初は付近一帯が低湿地であったことを反映した地名であろうとも推定されている。
海辺 うみべ  海辺新田がこの町の祖である。慶長元年(1596)ごろから、野田次郎左衛門が開拓を始めた。カヤの茂る干潟(海沿いの茅野や沼地)を開拓し、海に臨んでいたことから海辺新田と言われ、海辺の町名が生まれた。
永代 えいたい  かつて海岸の寄洲に存在した永代島に由来する。
枝川 えだがわ  大正4年9月、埋立工事に着手、昭和3年4月に完成し、当時の深川区に編入された。
 東京市の「枝川改良工事計画」によって、市内の各河川を掘り下げた土砂によって埋め立てられたことから、町名が付けられたものである。
越中島 えっちゅうじま  隅田川河口にできた寄り洲だった。江戸初期の一時期、播州姫路の領主榊原越中守の別邸があったので、俗に越中島と呼ばれた。
扇橋 おうぎばし  区の北部にあり、天和のころ(1683年ごろ)深川村と海辺新田の耕地を土地の者が願い出て町屋とし、そこにあった扇橋と言う橋名にちなんで町名とした。扇橋は江戸の文献にも見られることから、古くからあったと考えられる。
大島 おおじま  江戸時代の正保(1644~47)ごろ、海岸の低湿地を開発して村が作られ、約250年前の「元禄図」に初めてその名が出ている。当時比較的大きな島であったので、この地名がつけられたといわれる。
 「大島」の呼び名は、弘化四年(一入四七)改版「江戸町鑑」に「大ジマ」と濁音で呼ぶよう強調しており、これは深川猟師町の一つの大島町と区別して、ここを「大ジマ」と呼んだのであろう。その後昭和40年の住居表示制度実施時に 「おおじま」と読むよう決められた。

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亀戸 かめいど  この辺りはかつては海に浮かぶ弧島であった。この弧島は形が亀に似ていることから亀島と呼ばれ、後にこの島が周囲と陸続きになり村落を形成すると亀村と名付けられた。やがてこの亀村が亀ヶ井と混じって亀井戸と呼ばれ、更に井の字が略されて亀戸になったと言う。亀形の井桁がある亀の背の甲から水が湧き出る亀ケ井という古井戸が村内に存在した。地元の人々の間では、亀ケ井が村名の由来になったと伝えられている。
北砂 きたすな  砂村の村名は、明治22年4月1日、多くの新田を合併して代表的な、砂村新左衛門一族が開拓した砂村新田の名称をとり砂村とした。
 大正10年6月30目、砂村を砂町と改称、更に昭和7年10月1日、城東区が成立したとき砂の字を残して北砂町・南砂町とした。そして、昭和41~2年の住居表示制度実施にともない北砂・東砂・南砂・新砂へと町名を変更した。
 現在の北砂は、八右衛門新田、治兵衛新田、久左衛門新田、大塚新田、亀高村等の地域で、昭和7年城東区北砂町一・二・三・四・五の各丁目となり、昭和41年に北砂となった。
木場 きば  この地が木場となったのは元禄14年(1701)だった。材木商たちは各地を転々とさせられたが、江戸市中では火事の原因となるため、深川の埋立地が指定された。元禄16年(1703)に木場町と命名された。昭和6年、島田・鶴歩・入船・茂森・扇橋の周辺各町を合わせ、42年、平久町も合併した。
 昭和48年から材木業者は新木場(一四号埋立地)へ大半は移転したが、まだ木の香を残している。
清澄 きよすみ  寛永6年(1629)ごろ、この一帯の干潟を開拓した猟師町開拓八人の一人、弥兵衛がこの町の祖で、はじめは弥兵衛町と言ったが、元禄8年(1695)の検地の時に改めて清住町となる。清住とは、弥兵衛の姓であろうと言われている。
 昭和7年、伊勢崎町や西・裏・仲大工町と合併して、清澄町と改称とした。
江東区 こうとうく  昭和22年3月15日、当時の深川区と城東区が合併し、江東区が誕生しました。名前の由来は、隅田川の東に位置するという地理的な意味と、「江」は深川、「東」は城東という旧区名からの組み合わせによって決められたようです。さかのぼること江戸時代。江戸市中に近い、人口が少なく大火の心配がない、水運の便が良い、などの理由から木材業や倉庫業等が栄えたほか、深川・亀戸では、深川不動や亀戸天神の年中行事で賑わいました。その後、大正12年9月1日の関東大震災、昭和20年3月9・10日の東京大空襲、同24年8月31日のキティ台風上陸で、現江東区は壊滅的な被害を受けます。まさに、栄光と挫折を味わった江東区ですが、現在では、職・住・商が間近に揃い、臨海副都心が開発されるなど、たくましいまでに発展してきました。一方、河川や運河が縦横に流れる地形から、親水公園が多数整備され、水と緑の豊かな、うるおいとやすらぎのあるまちが形成されています。

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佐賀 さが  寛永6年(1629)に開発された深川猟師町八か町のうちで、はじめは開発者の名をとり藤左衛門町、次兵衛町といった。
 元禄8年の検地後、この地形が肥前国(現・佐賀県)佐賀の湊に似ているので佐賀町の名をつけたと伝えられる。
猿江 さるえ  伝説であるが、康平年間(1058~65)源義家の奥州征伐のころ、この地の入江に、「源義家家臣猿藤太」という名入りの鎧が打ち寄せられた。このことから、この地は猿江と呼ばれるようになったと言う。
塩浜 しおはま  昭和43年4月1日、住居表示制度の実施に伴い、浜園町と塩崎町の名からとられたものである。
 浜園…大正10年埋立完工、11年11月、深川区に編入され、浜園町と名付けられた。
 塩崎…大正10年埋立完工、11年11月、海浜の町を表わす名として付けられたものである。
潮見 しおみ  昭和43年2月30日、8号埋立地を区に編入する。潮の香のただよう地の町名として名付けられた。
東雲 しののめ  昭和13年6月1日、豊洲五丁目の東南、海面埋立地に東雲(しののめ)一・二丁目を命名し、更に11号埋立てに伴いここを東雲三丁目(現二丁目)と名付けて現在に至っている。
 東雲とは明け方にたなびく雲で、夜明け・あかつき・あけぼのを意味する。
白河 しらかわ  白河楽翁(白河藩主・松平定信の号)にちなんで町名がつけられている。寛政の改革で名高い松平定信(1758~1829)の墓所がこの地の霊巌寺にある。町名となったのは定信の没後100年余のことである。
 昭和7年、深川東大工町・霊岸町・元加賀町・扇橋町の各一部を合わせ白河町が誕生した。
新大橋 しんおおはし  新大橋は、元禄6年(1693)架橋された。昔大橋といわれた両国橋の次に造られた大きな橋に由来し、現在の町名になったのは、昭和9年である。
 安藤広重の描く当時の木橋「名所江戸百景」中の「おおはしあたけの夕立」は傑作であり、また、芭蕉も新大橋が架橋され、その恩恵に浴した喜びを「有難やいただいて踏む橋の霜」とうたっている。
新木場 しんきば  昭和47年11月1日、海に面する14号埋立地を区に編入した広大な地である。「東京湾第二次改定港湾計画」に基づき防災拠点開発構想をすすめるため、木材流通基地の整備がなされ、昭和48年から、木場地区の木材業者の大部分が移転してきた地である。
新砂 しんすな  大正時代以降、昭和に入ってからの埋立地で、城東区成立時に南砂町四丁目と九丁目に分かれていたが、住居表示制度実施時に、南砂町四丁目が新砂一・二丁目となり、南砂町九丁目が新砂三丁目となった。ここにある水処理センターは、江東区・墨田区の全部と、中央区・足立区の一部を処理している。
砂町 すなまち  水と緑に恵まれた大型親水公園が整備されている江東区内の地域といえば、砂町エリアが浮かびます。砂町の歴史は古く、江戸時代初期の新田開発によって生まれた土地。多くの新田を合併して、砂村新左衛門一族が開拓した「砂村新田」の名称をとり、明治22年4月、「砂村」が誕生しました。大正10年6月に「砂町」に名称変更。昭和41年の住居表示制度実施によって、現在の東砂、北砂、南砂、新砂へ変わっていったのです。
 砂町エリアは、昭和19年5月に都電(葛西橋~須田町)が開通、戦後は都バスが整備されるなど、古くから交通網が発展していました。それとともに、まちも発展。自動車の急増にともない、路上を走る都電は同47年11月に廃止されましたが、バス便は現在も充実。東京メトロ東西線「南砂町駅」が44年3月に開設されていたので、不自由を感じるところか、現在では買物スポットや医療機関、公共施設が周囲に揃い、便利で暮らしやすいまちとして発展を続けています。
住吉 すみよし  昭和9年6月に従来の猿江裏町・同東町・本村町を合併し新設された町である。吉は縁起のよいことばであることから住吉町と名付けられたようである。
千石 せんごく  昭和11年12月14日、石島町の南部と千田町の南部を合併して町を作った時、両町の各一字を取って千石町とした。
千田 せんだ  「人里はなれた十万坪…」と芝居の文句にあるように、江戸の頃は淋しいところであった。もとは海岸の干潟を、享保8年(1723)千田庄兵衛が埋め立て、千田新田と名付けたことから、千田の姓にちなんで町名となっている。

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高橋 高橋  昭和9年6月29日に新しく名付けられた町名で、この地は江戸時代の中ごろから武家の屋敷や町屋が開け、発展してきたが、地名は小名木川に架かる高橋に由来する。
辰巳 たつみ  十二支で表した辰巳の方向、つまり南東の方角である(江戸城から巽の方角にあたるからである)。
 昭和41、2年に七号埋立地が区に編入され、43年4月1日、住居表示制度実施に伴い現在の町名となる。
東陽 とうよう  東陽町、平井町、豊住町、洲崎弁天町、加崎町にあたる地域が、昭和42年、東陽となった。現在、区役所のある区域である。東陽の地名には諸説があり定かでないが、町の発展を願って名付けられたものである
常盤 ときわ  古くは深川村の分郷で松代町といったが、四の橋南側に移って南松代町と言っていた。後に火災で焼失し、高橋際と二の橋通りに替地が与えられた。そのとき、新町名を付けるにあたり、もとの松代町の「松」にちなんで縁起よく常盤町と名付けられた。
 俳聖松尾芭蕉の庵があった地で、「古池や蛙飛び込む水の音」はあまりにも有名な句である。
富岡 とみおか  昭和6年、従来の富岡門前町と数矢町などいくつかの町を合わせてできた(数矢町は江戸時代浅草の三十三間堂がこの地に移り、遠矢の数を競い合ったところからその名がある)。
 富岡の名は、現在の横浜市富岡町にある富岡八幡宮の分霊により、深川富岡八幡宮が建立されたことに由来し、この地が名付けられたと言われている。
豊洲 とよす  区の南端にあり、東京港の一部を構成している地である。
 地名は、昭和12年7月、この埋立地に町名が設定され、将来の発展を願って豊かな洲となるよう命名されたものと言われる。

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東砂 ひがしすな  荻新田、又兵衛新田、太郎兵衛新田、中田新田、大塚新田の地域で、城東区成立時に北砂町六・七・八・九・一〇丁目となり、住居表示制度実施時に東砂一・二・三・四・五各丁目となったものである。
 東砂六・七・八各丁目の区域は、もと八郎右衛門新田の区域である。
平野 ひらの  元禄11年(1698)幕府によって埋立てられ町屋が開かれたが、後に名主平野甚四郎長久の姓をとって平野町としたのが始まりという。
深川 ふかがわ  慶長の初期(1596~1614)、江戸がまだ町づくりをはじめたばかりのころ、深川八郎右衛門という人が、摂津国(現・大阪府)から移住して、小名木川北岸一帯の開拓を行い、この深川の苗字を村名としたが、これがこの地一帯をよぶ名称となった。深川区の名はこれをうけたものである。
 現在の深川は、昭和16年、亀住町と和倉町・万年町・冬木町の一部を合併して町名としたものである。
福住 ふくずみ  区の西部、一・二丁目に分かれる。この地はもと一色・伊沢・松村・黒江・永堀・大住・東永代・材木の各町を、昭和6年合併して福住と名づけられたものである。
 昔は隅田川の河口の洲で、江戸時代に埋め立てられ、網打場、石置場、材木置場などがあったが、しだいに町屋に発展していった。
冬木 ふゆき  材木商冬木屋に由来する。冬木屋は、上野国(現・群馬県)から江戸に出た上田直次がおこした。三代目冬木屋弥平次は一族の上田屋重兵衛と、仙台堀川の南の地を材木置場として、幕府から買い取った。
 宝永2年(1705)町屋をたてて、深川冬木町と名付けたのがこの町の始まりである。昭和15、6年に和倉・亀久・亀住・大和・万年などの各町を合併し、44年冬木とした。
古石場 ふるいしば  地名が示すように古くは江戸幕府の石置場であった。埋立てが進み、周辺に深川海辺新田飛地古石場、久左衛門新田飛地古石場、亀戸村飛地古石場と呼ばれる地ができ、明治24年に統合して深川古石場が新設された。
牡丹 ぼたん  江戸時代は、海岸を埋め立てた土地であった。昔、このあたりに牡丹を栽培する農家が多かったので、牡丹町と名付けられた。また現錦糸町あたりの牡丹園の職人が多く住んでいたので、この名が起こったともいう。

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南砂 みなみすな  砂村新田、永代新田、平井新田の地域で、城東区成立時に南砂町一・二・三・四・五各丁目及び、六丁目の一部となり、住居表示制度実施時に南砂となったものである。
三好 みよし  元禄14年(1701)、中川屋佐兵衛等三人が払下げを受けて町屋を開設したことから、16年1703)に三好町と命名したと伝えられる。
毛利 もうり  昭和9年6月15日、本村町の北の一部と猿江裏町の北の一部を併せて現在の名に改めた。本村町は毛利新田の一部であったことからこの名が残る。
森下 もりした  昔は深川村の一部であった。江戸時代の前期(1660年ころ)次第に町屋が建てられた。当時、この地の酒井左衛門尉の下屋敷に樹林が繁茂していて、周囲の町屋は森の下のようであったから森下と呼んだ。
門前仲町 もんぜんなかちょう  区内随一のにぎやかな商業地区である。門前仲町は、昭和6年、従来の黒江町・門前山本町と蛤町の一部を合併して誕生した。古くは深川永代寺門前仲町、富岡八幡宮の別当・永代寺の門前町屋として発展した。
夢の島 ゆめのしま  埋立ては昭和14年にはじめられ、当時飛行場が建設される予定だった。戦後、遊園地などが計画され、いつの間にか夢の島と呼ばれていたが、本区へ編入のときは正式町名となった。

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若洲 わかす  新たに生まれた若い島の意味で、新木場と若洲の間に若洲橋があり、橋の何もちなむ。昭和40年11月から埋立てを開始し、49年5月に埋立て終了。54年から64年にかけて本区に編入された。
参考資料:江東の昭和史〔1991年3月〕
:SUNAMACHI STYLE〔vol.1〕
東京の地名由来辞典〔東京堂出版〕